俺の敬愛する家族について
2031/08/23
なんとか決まった職場の上司を殴り飛ばし、備品まで壊してクビになってから、大体一年半。新しい就職先など当然見つかるはずもなく、昼はパチンコ屋で煙草の煙に巻かれ、夜はファミレスのバイトで食いつなぐような日々を送っていた。
「二十……二十二。すっくな……」
薄暗いアパートの部屋。今月の給料袋から取り出した一万苑札を数え、前城は力なく吐き捨てた。
そろそろ、生活費のために金を借りた黒社会の連中が取り立てに来る時期だろう。この金額なら、少し恐喝されるだけで諦めて帰ってくれるはずだ。
一体、俺の人生はどこで道を踏み外したのだろうか。
何十回、何百回と繰り返した問いが、今日もまた思考の底で不気味に蠢く。だが、最終的に辿り着くのはいつも決まって同じ場所だった。──そんなことを考えたところで、何の意味もない。今までだって何とかなってきたのだから、これからも大丈夫だろう。
そんな、呆れるほど浅はかな答え。
「ふぅ……」
薄い布団の上に倒れ込み、スマホの画面でバイトのシフトを確認する。明日は夜勤のファミレスだけ。随分と楽な一日になりそうだ。
充電ケーブルを端末に差し込み、前城は深く溜め息を吐きながらそのまま瞼を閉じた。
・・・
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2031/08/24
「お疲れ様でーす」
「おっ、今日は来るの早いね、前城君」
出勤指定時間の十分前に到着すると、よく夜勤のシフトが被る同僚の鈺さんが、スタッフ用ロッカーで着替えを済ませているところだった。相変わらず自分と違って真面目だな、と半ば他人事のように感心する。
「鈺さんに比べたら全然遅いっすよ」
「あはは、俺はただの心配性なだけだよ」
そう言って笑う鈺の目元には、酷く濃い黒ずんだ隈がこびりついていた。目を細めて微笑むその顔は、お世辞にもこれから朝まで働ける体調には見えない。
「また濃くなりました? その隈。夜勤のシフトなんて入れずに、少し休んだほうがいいと思いますよ」
「まあ、本当は帰って一息つきたいんだけどね……」
鈺は申し訳なさそうに、気まずく視線を逸らした。これ以上は突っ込んで聞くな、という無言の拒絶だろう。前城はそれ以上追及するのをやめ、適当な労いの言葉をかけながら、制服のシャツに腕を通した。
労働開始の合図とともに、前城はホールへと足を踏み入れる。店内には、遅めの夕食を黙々と摂っているスーツ姿の社会人や、休日の残像を惜しむような連れの家族客がパラパラと残っており、そこそこの数の席が埋まっていた。だが、人手の足りていないフロアの状況を物語るように、客の去った空き席のいくつかには、食い散らかされた食器類がそのまま放置されている。
前城は重い足取りでバッシング用のワゴンを押すと、放置された机の片付けから取りかかることにした。
冷め切ったスープの残り、油の浮いた皿、そして飲みかけのグラス。淡々とそれらを下げながら、前城の頭にはどこか冷めた思考が漂っていた。自分が殴り飛ばした元上司の顔、パチンコ台の眩しい光、そして部屋に残してきたわずかな現金。
「……はぁ」
ため息と一緒にグラスをワゴンのコンテナへ放り込む。カチャンと硬い音が鳴り、ホールの喧騒に消えていった。
その時、自動ドアが開き、チャイムの音が店内に響いた。
「いらっしゃいませー……」
マニュアル通りの言葉を口にしながら視線を入口へ向けた前城の身体が、ピタリと固まる。
入ってきたのは、明らかにこの安っぽいファミレスの空気には不釣り合いな二人組の男たちだった。一人は身仕立てのいい暗い色のスーツ、もう一人はガラの悪い柄シャツに身を包んでいる。一見すると普通の客に見えなくもないが、その目つきと独特の匂いは、前城が嫌というほど見覚えてのある “あちら側” の人間そのものだった。
昼間、頭の中で反芻していた「取り立て」の二文字が、一気に現実味を帯びて胃の奥を押し潰す。
「マジかよ、なんでこんなバイト先まで……」
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、前城は男たちの視線から逃げるように顔を伏せた。だが、彼らが向かったのは、前城の立つワゴンでも、空いているテーブル席でもなかった。
男たちの鋭い視線は、レジの奥、厨房とホールを行き来しながら、忙しなく注文を裁いているあの真面目な同僚、鈺の背中に向けられていた。
「こんばんはー、鈺さん。俺らのこと、覚えとる?」
土足でズカズカと厨房へ踏み込んでいった男の一人が、逃がさないと言わんばかりに鈺の肩をがっつりと掴んだ。そのまま逃げ場を塞ぐように顔をグッと近づけると、鈺の喉から怯えたような小さな悲鳴が漏れ出る。
「ははっ、そんなビビらんといてやぁ。そろそろ金返してもらいたいだけなんよ、俺ら」
異様な殺気を放つ男たちの乱入に、店内の客たちが察してざわつき始めた。客席のざわめきと食器の触れ合う雑音が急速に膨らんでいく。
前城はバッシングのワゴンをそっと置き、冷や汗を流しながら壁の陰に身を潜めた。厨房の中で交わされるやり取りを盗み聞きするため、呼吸を殺してゆっくりと足を進める。
「なあ……金、どうするん?」
「もっ、もう少しだけ待ってください……っ!」
「みんな『待って待って』って駄々捏ねるんよ。可愛らしいよなぁ? ……で、もう一ヶ月近く待たされとんのやけど、どういうことかな?」
肩を掴む手にさらにぎっちりと力が込められ、鈺が痛みに顔を歪める。詰問する男も、その背後で貧乏ゆすりをしながらイライラとスマホを弄っているもう一人の男も、痺れを切らして限界が近いのは明らかだった。
人ごとではない寒気を覚えながら前城が壁の隙間から覗き込んだ、その瞬間。
「──何見てんだよ、ボケが」
背後から低く濁った声が響いた。
次の瞬間、首の後ろの襟首を強い力で掴み上げられ、前城の身体が宙に浮いた。先ほどまで厨房の入口でスマホを弄っていたはずの男が、いつの間にか気配もなく前城の背後に回り込んでいたのだ。
服の首元が強く締め付けられ、前城は喉を鳴らして喘いだ。
「人様の商談をコソコソ盗み聞きか? いい度胸してんじゃねえか、ニーチャ」
スマホを持っていた男の冷ややかな眼光が、首根っこを掴んだまま前城を射貫く。壁の陰から引きずり出された前城と、絶望的な顔で固まる鈺の視線が、最悪な形で交差した。
「あらら? お前も確かうちに借金してる野郎じゃなかった?」
前城の顔を覗き込んだ男が、おかしそうに口角を上げた。
「どーも……お世話になってます、阿肚さん」
襟元に必死で指を突っ込み、なんとか気道を確保しながら答える。
「この店には借りた金も返せないグズしか働いてねぇのか?」
前城の首根っこを掴んでいる男、潜が不快そうに舌を鳴らした。苛立ちからか、無意識のうちにその手にグッと力が籠る。
「ぐっ……し、締まる締まる! 息っ……!」
「潜ー、そいつ首絞まってるから緩めたって。殺すんは勿体無いやろ?」
阿肚の軽い制止の声と同時に、突然襟を掴んでいた手から力が抜けた。圧迫されていた首元が一気に解放され、冷たい空気が肺へと雪崩れ込んでくる。
「っ、げほっ……! ゴホッ、ゴホッ……!」
前城はその場に膝をつき、激しくむせ返りながら床に手を突いた。涙目で喉を押さえる前城の頭上から、阿肚の楽しげな嘲笑が降ってくる。
「まあええわ。返済日前に商品が二人も揃ったわけやしな。……なぁ? 前城君も、鈺も」
阿肚は前城の頭をポンポンと手荒に叩くと、ゆっくりと店内を見回した。怯える客たちの視線と、遠くで固まっている店長の姿。
「ここで大騒ぎして営業妨害するのも悪いし、場所変えよか。二人とも、シフト上がりでええよな?」
にっこりと浮かべた阿肚の笑顔には、拒否権など微塵も存在していなかった。首をさすりながら立ち上がる前城と、絶望で顔を蒼白にする鈺。二人はこれから己の身に起こるであろう最悪を想像し、嫌な汗をかきながら阿肚の車に乗り込んだ。
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たどり着いたのは港近くのうらぶれた貸倉庫だった。肌にまとわりつく潮風のせいか、それとも目の前で拳銃に弾丸が詰め込まれていく光景を見せられているせいか、少々肌寒い。
隣に目をやると、今にも膝から崩れ落ちそうな鈺が、肩どころか全身を激しく震わせていた。死の恐怖に完全に呑まれている。だが、客観的に見れば俺もこの男も自業自得だ。
「さて……どっちから先にやろうかな」
阿肚は楽しげに拳銃を構え、どちらを先に料理するか吟味するように、銃口を左右へゆらゆらと振らせた。怯えきった中年か、それとも強がりな青年か。
「前城君はついでで連れてきただけやしなぁ……。ほな、鈺が先やな」
彷徨っていた銃口が、鈺の額の直前でピタリと止まる。気味悪く口角を上げていた阿肚の顔から、一瞬で一切の感情が消え去った。
「最後の言葉、ある?」
前城は横目で鈺を見た。この男は死の間際に、一体何を吐き捨てるのだろうか。震える唇が、必死に言葉を紡ごうと歪に開かれる。
「あ、あ、あと……あと一週間だけ待ってください! まとめて返します! 絶対に返しますからっ──」
強烈な破裂音が、コンクリートの倉庫内に跳ね返った。前城の耳に遅れて音が届いた時には、すでに隣にいた鈺は頭から血を流して床に倒れていた。生々しい赤がみるみるうちに広がり、靴底に届きそうになって、前城は慌てて足を引く。
「次は前城君の番やで。何か言いたいことあったら言うてみ?」
まだうっすらと硝煙を上げる銃口が、今度はまっすぐ前城へと向けられる。
「あ……」
「何?」
「えっと……俺の返済日、明後日なんすけど。もう殺される感じですか? 一応、ちゃんと返せるように金貯めてたんすけど……えぇ……」
「……あー、確かに。でもこの現場見られてしもたしな。前城君に通報でもされたらたまったもんやないし」
「え、言いませんよ俺。なんならこれ、掃除手伝いましょうか? 俺、バッシングとか掃除は得意なんで」
自分でも何を口走っているのか分からない。これは命乞いなのか、土壇場の交渉なのか、はたまたただの雑談なのか。
だが、命がかかっている場面にしてはあまりにもフラットな前城のトーンに、阿肚は毒気を抜かれたように拍子抜けした顔をした。
「……えらい肝が据わっとるやん。君、おいくつやっけ?」
「二十一っす」
「若いなぁ」
突きつけられていた拳銃がゆっくりと下ろされ、代わりにポケットから取り出された煙草が阿肚の指に挟まれた。ライターの小さな火が点り、紫煙が薄暗い空気に溶けていく。
「んじゃ、言葉通り片付け手伝ってもらおかな」
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「本当に手伝わせていいんですか? 阿肚さん」
鈺の死体を慣れない手つきでブルーシートに包んでいる前城を鋭く睨みつけながら、潜が不安と少々の苛立ちを孕んだ声で問いかけてきた。
「使い捨てのコマは持っておいて損はないやろ。それに……見たところ、前城君の方が潜より片付けじょーずやわぁ」
言われた潜の眉間に、一瞬で深々とシワが寄る。感情が顔に出やすく分かりやすい奴だと、阿肚は思わず鼻で笑った。
「あれでもうちょい筋肉がついたら、普通に使えそうやと思わん? まあ、仲良くしなさいとは言わんけど、あんま虐めたらんでよ」
「……分かってますよ」
「ほんまかなぁ」
阿肚は指に挟んでいた煙草の吸い殻を足元に落とすと、靴底でじわじわと踏みつけて火を消した。
ブルーシートの端を折り込みながら、前城は会話を盗み聞きしていた。自分が生き残るために差し出した「掃除が得意」という適当な一言が、どうやらこの男たちの琴線に妙な形で触れてしまったらしい。
血の匂いと潮風が混ざり合う独特の臭気に胸がムカムカとしたが、ここで手を止めれば即座に頭をぶち抜かれる。前城は黙々と、先ほどまで職場でお世話になっていた男の “片付け” を続けた。
「よし、形になったな」
阿肚がパンパンと手を叩き、満足そうに前城の仕事ぶりを見下ろす。
「前城君、合格や。明日からのバイト、シフト変更な。ファミレスの制服は捨てて、うちの雑用係として働いてもらうわ」
返済日まであと二日。本来ならバイト代で細々と食いつなぐはずだった日常は、深く暗い夜の闇へと消えていった。
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2032/06/14
「今日もお疲れさん」
血まみれの手をペーパータオルで拭う前城に、阿肚は煙草を一本差し出した。
「俺、吸わないんすけど……」
「吸った方が仲良うなれるよぉ?」
「反社と仲良くなってどうするんすか」
阿肚は頑なに受け取ろうとしない前城に溜息を吐くと、苦笑しながら煙草を箱に戻した。
「なんよ、前城君……自分がもう黒社会側っちゅう自覚ないん?」
あれから半年。前城は何体もの死体を処理してきた。時には車に押し込むために骨を折り、時には身元を隠すために躊躇なく刃物を振るうなど、あまりにも惨たらしい方法で掃除をこなしてきたのだ。それなのに、今更自分を一般市民だとでも思っているのだろうか。
「君はもう、立派な俺らの家族やで」
「家族?」
阿肚は紫煙をふぅと吐き出し、死体が包まれたブルーシートの収まり具合を確認しながら答えた。
「俺らの組織の会長はな、仲間のことを『家族』って呼ぶんよ。理由はよう知らんけど、家族ってもんに妙な執着があるみたいでな。……ところでこれ、骨どうなってんの?」
「膝と股関節、折って曲げやすくしときました」
組織、そして会長。前城はそのあたりの事情をよく知らなかった。元々、いつ切り捨てられてもおかしくない使い捨てのコマであり、単なる雑用係に過ぎなかったからだ。
今日まで殺されずに阿肚のそばで生き残ってこられたのは、前城の無駄に高い土壇場の適応力と、言われた仕事を黙々とこなす余計な感情のなさのおかげだった。
「俺はな、前城君がすぐヘマ打ってサツ鉄に捕まると思って、使い捨ての足代わりに置いといたんやけど……意外と警戒心高くて指紋とか一切残さんやん君。やから、流石にもう正式に契約させとかなあかんなと思ってね」
「契約……って、なんすか」
「組織の一員になるための儀式みたいなもんよ。すぐ終わる」
「儀式って、それ大丈夫なんすか? え、もしかしてこの死体を生贄に捧げたりしませんよね? 骨バキバキにしちゃいましたけど……」
「うちをカルト宗教か何かやと思っとる? そんなんやないから。さっさとそれ車に積んで、助手席乗り」
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阿肚が運転する車に乗り、たどり着いたのはどこにでもあるコンビニの駐車場だった。そこから少し歩き、二人は古びた煙草屋の前で立ち止まる。
「買うんすか、煙草」
「ちゃうわ。いいからついて来なさい」
言われるがまま、前城は阿肚の後を追う。阿肚は煙草屋の横にある狭い路地へ潜り込み、建物の裏側へと足を進めた。
「あ、おった。大文字さん!」
阿肚がひらひらと手を振った先には、暗い灰色の髪をした一人の女が煙草をふかしていた。声に気づいて阿肚を見つめ、次いでその視線が前城へと向けられる。
「待たせてすみませんね。こいつが例の、まだ契約を済ませていないうちの下っ端です」
阿肚にグッと腕を引っ張られ、前に押し出される形になる。女の至近距離に立って初めて分かったが、思っていたよりも背が低い。この華奢な女が阿肚の上たる立場にいるという事実に、前城は密かに意外さを感じていた。彼にとって黒社会とは、男社会そのものだという先入観があったからだ。
女は口に挟んでいた煙草を地面に落とすと、靴底でじわじわと踏み消した。
「小指を出せ。左だ」
差し出された女の手を真似て、前城は戸惑いながら左手の小指を伸ばす。指でも切り落とされるのかと身構えたが、そんな物騒なことは起こらなかった。女の小指がこちらの小指と絡み合い、強く握り締められる。その冷たい圧迫感に、一瞬息が詰まった。
「私の言葉をなぞれ。──私は父の家族となり、父の意志を我が全霊とする。……言え」
「え、あ……私は父の家族となり、父の意志を、我が全霊とする……」
前城が途切れ途切れに言い終えると、絡められていた小指が不意に離された。
「用件はこれだけだな?」
「ええ、お手を煩わせてすみませんね」
女はそれだけ言うと、用は済んだとばかりに沈黙のまま立ち去っていった。阿肚が丁寧に一礼するのを見て、前城も慌てて気持ち程度に頭を下げた。
「お前、予定は。……無いか」
「無いっすけど! あの、契約ってあれだけなんすか?」
「言うたやん、すぐ終わるって」
間抜けな顔で自分の小指を見つめる前城を、阿肚は呆れたように溜め息を吐きながら見やった。
「前城君、君は盃を交わすとか、書類に血でサインするとか想像しとったん?」
「いや、そんな大層なことは思ってないっすけど……。でも、指切り拳万みたいなのは想定外っすよ」
「なんやねん」
阿肚はコンビニの方向へと踵を返して歩き出す。前城はすっかり飼い慣らされた犬のように、おとなしくその後ろをついて行った。
「この世にはな、人間が知らん、理解もできん『世界のルール』っちゅうもんがいーっぱいあるんよ。その一つが今の契約や」
ポケットから取り出した煙草に火をつけ、器用に口に咥えながら阿肚は言葉を続けた。
「君が言った指切り拳万みたいに指を繋いで、契約内容を唱えるとな、契約を交わした者同士が、その言葉によって呪われるんよ」
「呪い……」
「期限を設定してない無期限の契約は、死ぬまでその誓いを守り続けなあかん」
パラリと、煙草の灰が風に舞って落ちる。
「それと……もし契約を破ったりしたらな、誓いを立てた指が勝手に弾け飛ぶ」
指を切られるという前城の物騒な予想は、あながち間違いでもなかったらしい。あまりに現実離れした話だが、先ほど小指を繋がれた瞬間のあの息の詰まる圧迫感を思い出すと、とても嘘には思えなかった。
前城はふと、前を歩く阿肚の指元に視線を落とす。右手の指はしっかり五本揃っている。だが左手には黒い革手袋が嵌められており、指先はコートのポケットの中に深く収められていて、どうなっているのかよく分からなかった。
「……阿肚さんも、契約したんすか?」
「家族は全員、契約を交わすんが決まりやからな」
重い溜め息とともに吐き出された煙は薄く白く漂い、夜の空気に一瞬で溶けて消えていった。
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2032/09/04
なんとかなる。これからも大丈夫──そんな浅はかな考えで、一体何度死にかけただろうか。反省もしない、学習もしない、救いようのない馬鹿。そんなんだから今、俺の後頭部には冷たい銃口が深々と突きつけられているのだ。
湿った匂いの漂う地下駐車場。車の数は疎らで、人の気配など微塵もない。それもそのはず、現在時刻は深夜二時。この時間帯、この地下駐車場は全面使用禁止となっていた。理由は不明だが、前城は直感した。どうせこの禁止理由にも、黒社会の連中が深く絡んでいるのだろうと。
「呼び出された心当たり、あるよな?」
大文字だったか小文字だったか、数ヶ月前、あの古びた煙草屋の裏で契約を交わした暗い灰色髪の女が、苛立たしげに靴を鳴らしていた。彼女の鋭い視線が射貫く先には、阿肚、潜、前城、そして阿肚の配下である下っ端が三名。
全員、大文字の部下たちによって後頭部に銃口を突きつけられ、身動きを封じられている。
「一体、なんのことですかねぇ」
「しらばっくれるなよ、阿肚」
どう見ても穏やかではない空気に、前城の心拍数が跳ね上がる。
「他の奴に聞いてみるか? 素直に認めれば、生かしておいてやらんこともないが……」
一歩踏み出すたび、大文字の靴音が地下駐車場に不気味に響き渡る。その音は、今にも殴りかかりそうな顔で大文字を睨みつける潜の目の前でピタリと止まった。
「左手を見せてみろ」
「…………」
潜は何も答えず、身動ぎひとつしない。後頭部に銃口を突きつけている男が、催促するように引き金に指をかけながら、ガツンと銃身を押し当てた。
潜の顔が分かりやすく歪み、やがて諦めたように左手が前に差し出される。
その手からは、小指が根元から丸ごと吹き飛んで失くなっていた。
衝撃的な光景に前城の背筋が凍りつく。もしやと思い、引き金を引かれたら溜まったものではないため、首を動かさないよう横目だけで他の奴らの手元を探った。阿肚は相変わらず黒い革手袋をはめたまま、ポケットに手を突っ込んでいるため確認できない。だが、横に並ぶ他の下っ端三人は全員、潜と同じく左手の小指が根元から無残に欠け落ちていた。
全員の手を確認し終えた大文字の、冷めきった瞳がさらに細められる。
「その指が何を示すのか……全員、分かってんだろうな」
前城の額から冷や汗が垂れ落ちる。お願いだから勘弁してくれ。俺の小指はちゃんと五本揃ってくっついてい──。
パンッ。
強烈な破裂音が地下駐車場に響き渡り、重い肉塊がコンクリートの地面へ激しく叩きつけられる音が前城の耳に届いた。阿肚の下っ端たちが、悲鳴をあげる暇もなく一瞬で処分されていく。瞬く間に広がっていく生々しい血溜まりに目を奪われていると、いつの間にか大文字が阿肚と前城の目の前に立ち塞がっていた。
「残りはお前らだけだ。手、出せ」
前城は素直に従い、どうぞ見てくれと言わんばかりに両手を差し出した。もちろん左手の小指は健康そのものだ。
阿肚はしばらく逡巡していたが、やがて諦めたように重いため息を吐くと、ポケットから左手を引き抜いた。黒い手袋の指先を右手でつまみ、するりと脱ぎ捨てる。
そこにはやはり、根元から丸ごと失くなった小指の痕があった。
「……いったい誰が密告したんです? まさか、こいつですか」
阿肚が横目で前城を盗み見る。前城は必死に首を横に振って否定した。
「聞いてどうする」
「はは、どうしましょうかねぇ……」
再び乾いた銃声が地下に響いた。今度はたった一発。頭部をぶち抜かれた阿肚の身体が、力なく床へ倒れ込む。
残された前城は、大文字とその部下達に囲まれていた。一人だけ生き残ったという安堵感よりも、自分だけが阿肚たちの裏切りから完全に蚊帳の外だったという事実が浮き彫りになり、猛烈な気まずさが押し寄せる。
「お前も、挟腹を裏切ればこうなる」
大文字は足元に転がる阿肚の死体を見下ろしながら、冷酷に言い放った。
「死にたくなければ組織に貢献しろ。分かったな」
「……はい」
前城の頭の中で「組織に貢献しろ」という言葉が虚しくぐるぐると渦を巻く。飼い主だった阿肚を失った今、未だに右も左も分からないこの裏社会で、一体どう動けというのか。変なことをして失敗すれば即座に消される。裏切りもまた、当然のように処刑の対象だ。
「あの……」
部下たちに撤収の指示を出し始めた大文字へ、前城は恐る恐る声をかけた。
「なんだ」
「片付け、手伝いますよ。俺、阿肚さんの下で死体の掃除しかしてこなかったんで……掃除なら、上手い自信があるんすけど」
見定めるような大文字の鋭い瞳が、真っ直ぐ前城を射貫く。前城は息を呑みながら言葉を続けた。
「俺を使ってください。組織に貢献できるかは分かりませんが……少なくとも、貴方の役には立てますよ」
己の口から出た言葉を、客観的に命乞いのようだと思った。だが前城の本音を言えば、自分主導で生きるより、誰かの下で与えられた雑用だけを黙々とこなす方が性に合っている。その方が圧倒的に楽なのだ。
「じゃあ動け。血を綺麗に洗い流すように」
大文字はそれだけを命じると、コートのポケットからスマホを取り出し、画面に視線を落とした。
「任せてください」
前城は慣れた手つきで阿肚のポケットから車のキーを抜き取ると、トランクからブルーシートとバケツ、洗剤の手配に取りかかった。
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2059/05/12
湿った路地裏。死体と共に飯を食う地獄の会食が一区切りつき、大文字は一人煙草休憩に来ていた。生臭い血と脂っこい中華の臭いを、少しでも早く嗅ぎ慣れた煙でかき消したい。だが、ライターのオイルが切れかけているせいか、なかなか火がつかないでいた。
「お疲れ様です、大文字さん」
手こずっていると、前城が自分のライターを差し出しながら、こちらへと近づいてくる。
「ついて来たのか」
「まるでストーカーみたいな言い方っすね。火、どうぞ」
カチッという音と共に、小さな炎が姿を現す。
大文字は煙草を咥えて火に顔を近づけ、煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
「お前はいつも、煙草に火がつかない時に都合よく顔を出すよな」
ふぅと煙を吐き出すと、会食中のストレスがほんの少しだけ和らいだ気がした。
「たまたまっすよ」
前城はライターをズボンのポケットに突っ込み、大文字の隣で壁に背を預けた。
「会場、どうするんすかね……。死体の数、過去一多いでしょあれ。俺片付けたくないっすよ」
「覚悟はしておけよ」
互いに重い溜め息を吐く。無残な死体群、そして “父” である挟腹のもとへ戻るのが、ひどく億劫だった。
「大文字さん。片付けが終わったら、気分直しに飯行きません? やっすいファミレスに」
「……死体を片した後に飯か? ……お前も大概いかれてるな」
「ダメですか?」
おねだりするように、前城は下から大文字の顔を覗き込んだ。大文字はしばらく前城を見つめ、煙を吐き出すと同時に「……好きにしろ」と短く承諾した。
「マジすか? やった」
「私はもう戻る。お前も早く戻れよ」
「了解です」
大文字が去っていく背中を、前城は見えなくなるまで見つめていた。
「ファミレス、か」
大文字の姿が路地の闇へ溶けて消えたあと、前城はぽつりと呟いた。かつて自分が夜勤で雑用をこなし、万札を数えていたあの場所。上司を殴り、闇金に追われ、死体を丸めてブルーシートに包むようになる前の、遠い過去のような日常。
いつもの問いが頭を掠めたが、前城はすぐに思考を放棄して浅い息を吐いた。考えるだけ無駄だ
ポケットの中でライターの存在を確認し、前城は大文字の歩いて行った暗闇へと、重い足を歩み出させた。