私は
2057/05/03
鉄と錆の臭いに塗れた街。天和区はどんな場所かと問われたら、記鹿はそう説明する。ネオンシティことシンナンにおいて、最も治安の悪い区域がここ天和だ。整備の行き届いていない場所が多く、血の臭いなのか錆の臭いなのか判別できない鉄の匂いが漂っている。
天和のいい所はどこかと問われたら、記鹿は煙草の品揃えが良いと答える。天和の喫煙者率はシンナンの各区域の中で一位だった。その理由に、煙草を販売している建物が多い事と喫煙所が多い事が挙げられる。この天和唯一のいい所も非喫煙者からしたら関係無いし、むしろ煙草の臭いが酷いという悪い所が一つ増える。
喫煙者の記鹿は天和唯一のいい所がある店、無駄にでかい煙草屋に来ていた。店の前には金属製のスタンド灰皿が設置されており、それを囲むように三人の男がそれぞれ煙草を吸っている。少し離れたスタンド灰皿が置かれていない場所にはマフラーを頭巾のように巻いた男が煙草も吸わずに、スマートフォンもいじらずに、ただぼーっと座り込んでいた。記鹿はその男が少し気になったが、特に声をかける事なく店内に足を踏み入れた。
店内はカラフルな煙草の箱が綺麗に並べられた棚で埋め尽くされていた。一面の煙草景色に、記鹿は思わず苦笑いする。
俺はなんで仕事の合間にここに来たんだろうな……。
記鹿は約四年前に新たに作られた公安特異二課という組織の一人だった。公安特異二課は、天使に関する事件などを主に担当する部局であり、今日記鹿が天和に来たのは、最近噂になっている天使の核の情報を集めるためだった。
煙草を買いに行くほどの余裕は進捗的に無いのだが、コートのポケットに入っている煙草が残り二本しか無いので今回は寄り道を見逃して欲しい。いや俺はニコチンが切れて苛立つ程の中毒者では無いのだが…それも見逃してくれ。でかい煙草屋を見るのは初めてだったんだ。
記鹿は棚に並ぶ煙草を流し見する。国内製のよく見る煙草はもちろん、海外製の縦に長い箱や横に長い箱もある。品揃えの良さに記鹿はわくわくした。
しばらく店内を歩き回り、結局いつもの銘柄を購入する。
店を出て残り二本しか入っていない古い方を一本取り出し、慣れた手つきで火を付け吸う。金属製のスタンド灰皿の周りにいた男達は吸い殻を残していなくなっており、今は記鹿一人の貸切状態だ。
ふと気になって左に視線を向ける。そこには変わらず頭巾のようにマフラーを巻いた男が座り込んでいた。記鹿はしばらくその男を観察しながら煙を吐く。
面倒な事には首を突っ込まない方が吉だ。助けを求められたら無視した方が得だ。自分優先で生きた方が長生き出来る。それがここネオンシティの考えだ。だが記鹿はそれを理解した上で首を突っ込みたくなるし、踏み荒らしたくなる質だった。故に半分しか吸っていない煙草を灰皿に押し付け、男に声をかけてしまった。
「何してるのお兄さん」
あーやってしまった。またいらん事に突っ込んでしまった。と一瞬で後悔する。
男は記鹿の声に反応してゆっくりとこちらを向いた。髪は真っ白だが、顔の皺の少なさから自分より若い男だった。
「わ。煙草臭い竜だ。別になんもして無いですよ」
「ふーん。じゃあなんでここに居座ってんの」
記鹿は流れるように男の隣に座った。微かに消毒液の匂いがした。
「特に理由はないですよ」
「ならここじゃない方がいいと思うけど。ほら、ここ煙たいでしょ?」
「煙はどうでもいいんですよね。むしろ俺身体が弱くて吸えないから、せめて煙だけでも味わおうかと……嘘ですけど」
記鹿の彼に対する評価は “ 変な奴 “ だ。だが天和の荒れた住民に比べたら彼は普通だと思う。
「あ、そうだ。今暇ですよね? だってそっちから喋りかけて来たんですもん。質問していいですか?」
煙草を見すぎてすっかり忘れていたが、そういえば俺は暇じゃないんだった。こんな所で道草食ってないでさっさと天使の核に関する情報を集めなければいけないんだった。
「…どうぞ」
知らない人間の質問に答えている暇は無い。だが心のどこかでこれくらい大丈夫だろうという思考が巡り、それは記鹿を仕事に戻す事を知らなかった。
「この世はほとんどがデータ社会です。一人一人にデータがあり、国がそれを管理する。データを元に天使か人かを判別する。じゃあ、そのデータが無い場合、あなたは…えっと、名前を聞いても?」
「記鹿」
「記鹿さんは、己が人であるという事実をどう証明しますか?」
「ほう…」
もっとしょうもない質問を期待していたが、なかなか面白そうだ。
「うーん………正直無理な気がするよ。目の前で自分を切りつけて血を流すっていうのを思いついたけど、もしかしたら血が赤い天使もいるかも知れないもんね」
男は返ってきた記鹿の答えにつまらないとため息を吐いた。
「そう…記鹿さんは頭がいいんですね。俺はもっとぶっ飛んだ回答が欲しかったんですけど」
「悪かったねつまらない男で!」
男は満足したのか、立ち上がり、その場を去ろうとする。記鹿は思わず止めた。
「何? 俺はもう帰るよ、今日寒いし」
「名前教えてくれる? こっちの名前だけ知られてるのは不平等だろ?」
彼は一瞬嫌そうな顔をした。
「…名前知ったところでって感じでしょ。まぁ、確かに俺だけ聞いたのは不平等かも知れないから教えますけど……更々墓です」
更々墓は要件が終わると「じゃあね」と背を向け軽く手を振った。記鹿も小さく手を振る。
やがて彼の姿が見えなくなり、記鹿は己の仕事を思い出した。左手首の腕時計を確認すると、気がつけば一時間もサボっていた事に気がつく。
「はぁ……」
記鹿は少し大袈裟にため息をつき、二本目の煙草を咥えて情報集めを再開した。