天使の眠る冷蔵庫
2058/12/09
静間依は自堕落な男である。
バイトで稼いだ少ない金を刹那的な快楽のためにパチンコに溶かし、大負けしたのにもかかわらずなんとかなるだろうという浅はかな考えに縋る甲斐性なしの典型だ。
「今月結構きついかもなぁ……」
街灯がまばらに設置されている薄暗い歩道を歩きながら、依は独り言を呟く。
「もやしを買えるだけ買って、二日に一袋消費したらギリ持つか……最悪イガラシに飯奢ってもらったら死ぬ事は無いでしょ。多分」
誰にあてるでもない独り言を続ける。依は今月をどう生き延びるかを考えており、周りが見えていなかった。故に目の前に立っている人物に気がつかずぶつかる。
「あっ、ごめん…」
依がぶつかったのは女性だった。女はゆっくりと依に振り向く。
「えっ……」
目の前に立つ女はだらしなく白いワイシャツを着ており、下は部屋着のような黒い半ズボン。左足は黒い金属でできていたが、義足と呼ぶにはあまりに簡素な、ただの鉄の支柱のようだった。袖から見える腕も金属でできているのだろうか。こちらも義手にしては歪な形をしていた。
街灯の少ない、暗闇に近い場所。人一人いなかったはずの歩道に突然現れた、歪な黒い手足を持つ女性。
彼女はヤミから発生したこの世のエラー体、天使だった。
「可愛い!」
依は思わず叫ぶ。この男は思ったことを素直に口に出してしまう男だった。そして少々脳味噌が足りない男だった。
「えっ、めっちゃ可愛いどうしよう! いや天使見つけたら通報しないといけないのはわかってるんだけどさ、でもめっちゃ可愛い! 身長低いし色白だし目くりくりじゃん! 天使だけど天使であって欲しくなかったよぉ」
天使はぶつかって来たかと思えば、こちらの姿を確認するなり突然はしゃぎ始めた男に感情の読めない冷ややかな目を向けていた。
「ねぇ惡魔に捕まって殺されるの嫌でしょ? 俺が助けてあげるから一緒に住まない? あっ、そういえば天使は喋らないんだっけ…無口な人見知りの子供みたいで可愛いー!」
依は彼女の歪な腕を恐れる事なく強引に掴み、ボロいアパートの一室に向かって再び歩き出した。
・・・
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「女の子呼べるような家じゃ無いんだけどさ、天使だから許してくれるよね?」
依は天使を我が家に招き入れた。狭いキッチンにはカップ麺の空容器やもやしの袋が乱雑に放置されている。床には服が脱ぎ散らかされており、この男のだらしなさを象徴する空間になっていた。
「ネオンシティって寒いからさ、虫が殆どいなくてマジ助かってるんだよねー。俺虫ちょー嫌いだから」
床に散らかったパチンコの雑誌や服を蹴飛ばし、依は天使が座るスペースを作った。
「てかマジで喋んないんだね。まぁいいけど、俺の独り言に文句言わないし。でも名前分かんないからそれは困るなぁ…」
しばらく考え、突然「あっ!」と大きな声を出す。天使はその声にびっくりして肩が跳ねた。
「ヨゾラって呼んでいい? ほら、ちょー綺麗なさらっさらの黒髪だしさ、目も黒くて夜空っぽいじゃん? それに夜空の下で会ったし! いやネオンシティはほぼ夜なんだけど…でも可愛くない?」
天使は否定も肯定もしなかった。依にとって否定されていないという事は、つまり肯定である。そんな極端な思考と由来で、天使にはヨゾラという名前が付けられた。
「よろしくヨゾラ! ヨゾラの事は俺が惡魔から守るよ!」
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2058/12/12
静間依は軽薄な男である。
他人の善意を都合のいい延命装置と見なし、その慈悲を躊躇なく貪り続ける厚顔無恥の権化だ。
「久々に肉食ったわ! まじ奢ってくれてありがとー」
依は友人のイガラシという男と共にチェーン店に来ていた。ヨゾラと出会ったあの日。パチンコで大負けしたのにもかかわらず、今日も欲に負けてパチンコをしてしまい、一度は勝ったがその後調子に乗ってなけなしの食費が消えたのである。
「いい加減パチンコを辞めたらどうだ。あと働け」
「働いてるよ、バイトだけどね。それに俺がちゃんとした場所で働くのが無理だって事知ってるでしょ?」
イガラシは否定できずに唸る。
「…給料日は月末だよな」
「うん。だから食費が無い! 先月もっとシフト入れておけばよかったなぁって、今になって後悔してるよ」
「はぁ………スーパー行くぞ」
イガラシは依に対してお人好しだった。依がこうして細い体を借りパクされたスウェットに隠して会いに来るたび、良心が放っておけず食料を与えてしまう。
「うわっ! もやしちょー安いじゃん!」
「もやしは買わないからな。お前が栄養失調で死にそうで怖い」
「え〜。でももやし結構うまいよ? 俺はスナック菓子感覚で二日かけて食ってる」
「いいから好きなカップ麺選べよ…」
この男は厚かましいのか謙虚なのかたまに分からなくなる。イガラシは「でも〜」と文句を言う依の細い腕をカップ麺が並ぶ棚まで引っ張った。
もやしから離れた依はしばらくカップ麺を選び、決めた物を次々とイガラシに渡す。
「あっ! ねぇ、お菓子一個だけ買っていい? お願い!」
イガラシは適当に返事をして了承する。依は子供のように嬉しそうな顔をし、早足でお菓子コーナーに向かった。
依はお菓子コーナーで女の子が喜びそうな、可愛らしい甘い物を探す。ヨゾラへのちょっとしたプレゼントにしたかったのだ。プレゼントなら自分で買うべきなのだが、依にはそのような思考が無い。
自分のカップ麺を選んでいた時より長い時間をかけ、一つのお菓子を手に取った。チョコでコーティングされた小さいケーキのようなお菓子だ。
「長いな。先に会計済ませたぞ」
ビニール袋を持ったイガラシが真面目にお菓子を選ぶ依に声をかける。
「ねぇ、このお菓子女の子好きかな?」
「はぁ? 女の子? お前彼女できたのか!?」
「いやいないよ!? ただ、なんとなくだよ…」
「なんとなく…ねぇ」
ニヤニヤと見てくるイガラシに「いいから買ってよ!」と持っているお菓子を突きつける。イガラシは子供を宥めるように、そのお菓子を受け取って再びレジへ向かった。
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スーパーを出てビニール袋を依に渡したイガラシは、コートのポケットから煙草を取り出し口に咥えた。
コンビニで買ったライターで火をつけ、煙を吐く。
「お前さ、もう間違えんなよ」
煙を避けるように距離をあけて、煙草を見つめる依にイガラシは言った。
「女に惚れるのはいいよ、それは悪いことじゃない。でも愛し方は間違えるな。一方的に愛を押し付けるな。身勝手に生きるな」
「…わかってるよ」
依とイガラシは幼馴染と呼ぶには語弊があるが、それなりに深い仲だった。けれど依はイガラシのことを「俺とは違って真面目に働くいい奴」だという側面でしか捉えていない。
対するイガラシは、依がどんな生活を送り、どんな家庭環境を経て今に至るのかを肌感覚で理解していた。そして依がかつて犯した過ちのことも。
「お前は計画性もないし、思ったことをすぐ口にする馬鹿だけど、常識がないわけじゃないだろ。……だから、同じことは繰り返すな」
ふぅと吐き出された煙が、空を舞って消える。
──間違えるな。 ──繰り返すな。
その言葉が、依の内で幾度も反復される。
「分かってるってば……」
分かっている。何が間違いで、何が正しいか。痛いほど分かっている。全部分かっているのだ。
それでも理解した上でなお、決定的な瞬間に間違った選択をしてしまう。それが静間依という男だった。 静間依という人間はそうでなければならなかった。
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アパートに戻り、イガラシに買ってもらったお菓子をヨゾラに見せる。
「見て! これ友達に買ってもらったんだよね。でも選んだのは俺だよ? 君こういうの好きかなーって思って」
依は袋を破り、一つをヨゾラに渡す。
「天使って物食べるの? そもそも食べ方分かる?」
ヨゾラにお手本を見せるように、依は持っているお菓子を口に入れ咀嚼した。それを見ていたヨゾラは真似してお菓子を口に入れ、もぐもぐと口を動かす。
「美味しい?」
依は彼女がお菓子を食べているのを見つめた。
可愛い女の子が近くにいるのが幸せだ。俺の選んだ食べ物を食べてくれるのが幸せだ。だがヨゾラは天使だ。天使を匿うのは間違った選択で、こうやって一緒にいるのは許されない事なのだ。
「分かってるよ」
自分にしか聞こえない小さな声で呟いた。
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20██/██/██
それは十二歳の時のことだった。いつもリビングで朝食を食べている父親がその日は不在だった。早出かと思い母親に尋ねたが「知らない」とだけ返ってくる。まあそんな日もあるだろう。俺はトーストを胃に流し込み、家を出た。
結局、その日から父親が帰ってくることはなかった。
「ねえ、お父さん大丈夫かな? 事件に巻き込まれたんじゃ……」
不安がる俺に、母は焦燥を隠しきれない声でまくし立てた。
「電話も繋がらないの。それどころか貯金も消えてるし、借金が……とにかく、あんたはさっさと寝て。もう遅いでしょ」
その日から我が家の形は崩れた。蓄えは消え、残されたのは借金だけ。金銭的にも精神的にも、余裕なんて言葉はこの家から死に絶えた。
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20██/██/██
父親が消えて一年。俺はリビングで、あの日と同じようにトーストを食べていた。ニュース番組で今日の気温を確認していると、見慣れた顔が画面に映し出された。
父親だった。
『詐欺の疑いで逮捕されたのは、住所不定・無職の静間大吾容疑者。警察によりますと、静間容疑者は昨年十月、マッチングアプリで知り合った都内在住の女性に対し……』
「あ、生きてたんだ」それが、画面越しの犯罪者となった父を見た最初の感想。
「なあにやってんだ、こいつ」これが二番目の感想。
俺の知る父親は、少し乱暴でだらしないが家族想いの男だったはずだ。少なくとも、妻子を捨てて消え、見知らぬ女を騙して金を巻き上げるような人間ではなかったはずだった。
その日から母は「犯罪者の妻」になり、俺は「犯罪者の子供」になった。
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20██/██/██
犯罪者の子供としての日常に慣れ始めた頃。下校途中の道で妙な臭いがした。生肉のような、あるいは歯茎から出血した時のような、粘りつく血の臭い。臭いを辿った先には、同じ学校の制服を着た女子が泣きながら地べたにしゃがみ込んでいた。
彼女の手は真っ赤に染まり、すぐ傍らには男が横たわっている。
殺人。直感的にそう理解した。それ以外にあり得なかった。
靴がコンクリートを擦る音に、彼女が弾かれたように反応する。怯えと恐怖に塗りつぶされた瞳が俺を射抜き、震える唇が必死に言葉を紡いだ。
「あ、あ、ま……これ、これ違くて! 事故、事故だから! この人が悪いの、私……!」
「可愛い」
畳みかけるような弁明を、俺の場違いな一言が断ち切った。
「……へ?」
「可愛い! 髪サラサラだ。お花の匂いがするシャンプーとか使ってそう! スカート長いから校則を守るいい子なんだね。お目目も大きくて宝石みたい!」
彼女の恐怖の対象が「人を殺した自分」から「目の前の理解不能な男」へと変質したのが分かった。
「殺しちゃったのは彼氏? 何かされたの? 大丈夫だよ、怖かったよね。俺、犯罪者の子供だから。大丈夫、誰にも言わないし、この死体も俺が片付けてあげる。……あ、これ使う? ハンカチ」
俺は制服のポケットからシワまみれのハンカチを差し出した。彼女は恐る恐るそれを受け取り、真っ赤に汚れた指先を拭った。
・・・
『続いてのニュースです。昨日未明、███の空き地で切断された男性の遺体が見つかった事件で、警察は本日、近くに住む十六歳の少年を死体損壊および死体遺棄の疑いで逮捕しました』
『警察によりますと、少年は先月下旬、自宅近くの路上で死亡していた男性の遺体を鋭利な刃物のようなもので切断。数回に分けて、こちらの空き地へ遺棄した疑いが持たれています』
『遺体は整合性に欠けるほど徹底的に解体されており、発見当初は身元の判明が困難な状態でした』
『警察の取り調べに対し「通りがかりに、女の子が困っていたから手伝ってあげた」「彼女を安心させるために、自分がやるしかないと思った」と少年は容疑を認めています』
『少年と被害男性、および現場にいたとされる少女との間に面識はなかったとみられています。警察は、少年が面識のない第三者の犯行を隠蔽するために遺体を損壊・遺棄したという異例の経緯について、慎重に裏付けを進めています。また、少年の自宅からは、血痕の付着したハンカチが押収されており――』
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2058/12/21
静間依は短慮な男である。
理性を本能の隷属へと貶めた意志薄弱な常習犯であり、自らの言動が招く破滅を予見していながら、稚拙な欲望に屈して同じ轍を踏み続けるその姿は、理性を放棄した獣のそれと何ら変わりない。
「これ、値下げとかしてくれません?」
旧倉庫のスクラップショップ。依の目当ては、無造作に置かれた一丁の斧だった。
店員が怠そうに鼻を鳴らす。
「ああ、それ。ボロすぎて誰も買わねえから、持ってっていいよ。……で、斧なんて何に使うんだよ」
「最近さ、ネズミが沸いちゃって。斧でぶった斬ってやろうと思って。……今度、金に余裕があるときに何か買いに来るからさ!」
依は斧を目立たないよう抱えて店を出た。ネズミの嘘も、再訪の約束も、すべてはその場限りの空っぽな言葉だ。
「ただいま、ヨゾラ」
バレなければ、犯罪は犯罪にならない。誰にも迷惑をかけず、罰も下されないのなら、それは「なかったこと」と同じだ。天使幇助という取り返しのつかない間違いを選んだ依は、その間違いを墓場まで持っていくという使命感に突き動かされ、唐突に斧を調達したのだ。
「あ、起きてる。おはよ」
唯一、床に物がない洗い場。ヨゾラの手足は業務用の結束バンドで固定され、自由を封じられていた。
「起きたのはさっき? 手首も足首も綺麗なままだね。いい子」
ヨゾラの黒い髪をそっと撫でる。
依が持つ天使の知識はたった二つ。「首の後ろにある核を壊せば死ぬ」こと、そして「核さえ無事なら、決して死なない」こと。 昨夜、もやしを啜りながらこの二つの情報を弄んでいた依は、ひとつの「天才的な解決策」に辿り着いた。
──核を傷つけないように頭部と胴体を切り離し、頭だけを冷蔵庫に隠せば、完璧に守り通せるのではないか?
この場にイガラシがいれば「馬鹿な真似はやめろ、今すぐ天使を惡魔に引き渡せ」と一喝してくれただろう。だが幸いにも、洗い場には依とヨゾラの二人しかいない。
「ねえヨゾラ、今から君に痛いことするけど、俺のこと嫌いにならないでくれる?」
私物化したイガラシのスウェットを脱ぎ、依はヨゾラへ語りかける。
「ふふ、大丈夫。俺、やったことあるから。二回で切り落としてあげる。これは俺らのためなんだよ」
血が飛んでも惜しくない格好になり、依はヨゾラを見下ろして斧を構えた。男の首よりずっと細く、頼りないほど柔らかな白を捉える。
「大丈夫。俺、なんだかんだ上手くいくし、死にたくなるような失敗なんてしたことないんだ。……なんでだろうね?」
一回目。平均的な成人男性よりもずっと軽い重さを腕に込め、振り下ろした。 黒い液体が壁や肌に散り、視界を汚す。鉄臭い生血よりは遥かにマシだと思った。
二回目。さらに強く、確信を持って振り下ろす。 不快な音が骨の断絶を告げ、ヨゾラの頭部と胴体が別れた。
成功か。ヨゾラは、まだ生きているか。顔を覗き込むと、黒く大きな瞳がこちらをじっと見つめ返した。
「あっ……よかった! 成功だ!」
黒い滴をこぼしながら、依は幼く微笑んだ。ヨゾラは欠損を修復しようと、切断部から黒い粘液をどろどろと流し始める。
「あー、待って待って!」
新しい胴体を生成しようとする頭部を抱え、依は急いで冷蔵庫へ向かった。
中身を空にした冷蔵庫へ、ヨゾラの頭部を丁寧に押し込み、扉を閉める。
「大人しくしてて。俺は、君に死んでほしくないんだ。お願いだから」
冷たい扉に額を擦りつけ、縋るように呟く。やがて中から聞こえていた液体の蠢く音が止まり、依はゆっくりと扉を開けた。
体積を減らし、冷え切ったヨゾラの瞳が依を静かに睨みつける。対照的に、依は満足げに口角を上げた。
「うん。それでいい。これからはここが君の部屋。ここが、君を守ってくれるから。だから、もう黒い血なんて流さないでね」
綺麗な指先で、ヨゾラの頬に散った汚れを拭う。
「大好きだよ、ヨゾラ」
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2058/12/24
イガラシは依の家に生存確認のため来ていた。相変わらずキッチンはもやしの袋とカップ麺の空容器で溢れているが、ちゃんと食べている証拠なので一旦見逃す。
ふと冷蔵庫の中が気になった。依は冷蔵庫を使っているのだろうか。中に入れるような物はあるのだろうか。
冷蔵庫の取っ手に手を伸ばし、掴む。
「くしゅっ」
開けようと力を込めた時、依が寝ている部屋からくしゃみが聞こえた。また毛布一枚で寝ているのだろう。そういえば依は風邪をこじらせやすい奴だ。
イガラシは取っ手から手を離し、依の元へ向かった。